光圀伝 / 冲方丁

光圀伝を読んだ。

江戸時代初期、二代目水戸藩藩主・徳川光圀の生涯が描かれている。生まれてから死ぬまで全て。 大変に重厚な物語なので元気があるときに読むといいと思う。偉人の一生をまるごと味わえる。

冲方丁の作品は全て没入感がすごい。たとえ読んでない時でも自分が主人公になったような気分のままになる。 徳川光圀水戸黄門の名前であまりに有名だけど、あの状況は現役引退後のほんの一部分を描いたに過ぎないし本作品では一厘も語られない。

とはいえあくまで小説なので本作品は歴史とは異なる!なんてことは気にしないほうがいい。

主人公徳川光圀は一切の非の打ち所がない誰もが憧れる名君として描かれている。

父親譲りの膂力に母親譲りの美形、強靭な精神力に成長欲・負けず嫌い、詩歌を好み詩歌のために学術を惜しまず身につけ、市民にも大人気で将来を約束された貴族のボンボン。名君と呼ばれるほど、数々の偉大な業績を残した学者であり政治家でもある。そんな人物だ。

特筆すべきは義へのこだわりだと思う。もちろん儒教を奨励しているからこその考えだと思うけど、「社会全体として見て、自分のなすべきことは何なのか」を考え、見出した義を人生の目標として掲げ、もし成就しないようなら即刻腹を切る覚悟でいた。

「自分がどうなっても構わない、しかしこれだけは何が何でも全うしたい」その思い一つで生きていった。

この義は人よって矛盾し得るので、その時は殺し合いである。その殺しが周りから見て不義であるならまた自分も殺されるか腹を切るかする。そういう時代での人々の生き方は実に様々で濃い作品だった。

義プログラミング

ここで「義プログラミング」を提唱したい。

「義プログラミング」とは、「こうあるべき」を第一に考えるプログラミング技法である。 最も解りやすい例は振舞駆動開発だ。「こう書かれるべき」「こう振る舞うべき」をまず初めに書き、そこから詳細な振舞を実装していく。

「論理的に間違ってないかな?」などの疑問は後回しだ。「まずはじめにこうあるべきで、それならば次はこうなるべきで、よってこうなるべき」この連鎖で実装していく。

問題はこの義が他人とぶつかった時である。

互いに腹を切る覚悟の義があるので譲る訳にはいかない。かと言って斬り合うわけにもいかないので光圀がしたように論争と言う形での勝負になる。相手を言い負かし、屈服させた方の義が通る。

書いていたわかったようにこの「義プログラミング」は破綻している。自身の「こうあるべき」は得てして全体の「こうあるべき」と食い違う。

そこで重要な要素は「中」であるか、である。 中とは一切の非がない完全な道・儒教における行為の最高概念、中庸である。

中庸はどんな聖人君子でも到達が難しい物、しかし絶対に諦めてはいけない最高目標である。

義がぶつかった時は互いの中庸となる第三案を模索すべきだ。時には自分の義が間違いであるのかもしれないと疑うことも必要だ。義は中でなければならない。

まとまらないが最後に劇中の最も印象に残った言葉を自分の胸に刻みたい。 光圀は十代の頃に聞いたこの言葉を、生涯に渡り忘れなかった。

「天地の狭間にあるもの、悉くが師なり」 宮本武蔵