最近感じている、「議論はすべきでない」という自説について書いてみる。
この説を裏付ける、二つの話題が自分の中にあったからだ。
人を動かす
最近読んだ本「人を動かす / デール カーネギー」がきっかけだった。
- 作者: デールカーネギー,Dale Carnegie,山口博
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 1999/10/31
- メディア: 単行本
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70年も昔に出版された古典だが、今も売れ続ける世界的な名著で、「人を動かす」という普遍的なテーマを扱っている。 この本の「人を説得する十二原則」の項目の最初に紹介されるのは「議論を避ける」というものだった。
その項目を読むまでは、「議論は大切だ」「議論は積極的にしていけば、よりよい物ができあがるはずだ」と思っていただけに、僕としてはこの本での一番の衝撃的な内容だった。
内容を自分なりに要約すると、「誰かとあるテーマで議論をして相手を打ち負かし、自分を満足させて相手に恥をかかせるくらいなら、議論しないほうがよっぽど有効な関係を築ける」というものだ。
本書から引用すると
「議論に負けても、その人の意見は変わらない」
バイリンガルニュース #209
最近聴き始めたポッドキャスト「バイリンガルニュース」では、「コロラド大学ボルダー校の社会学の研究で、グループディスカッションをすると、意見が極端に分かれていき、さらに自分と反対の意見だけを極端だと信じこむ傾向にある事がわかりました。」というニュースがあった。
このニュースでは、相手の意見をまちがえて覚えていたり、自分の意見が極端になっていたことにも気が付かない。
議論が白熱していくと、元々の自分の意見も忘れてしまう。といった研究結果が紹介されている。
議論が成功したことはあるか?
自分の経験に当てはめると、たしかに経験したことがあるものだなと思った。
A案とB案、どちらがよいかで議論が始まると、どちらも同じかなぐらいの気持ちだったのにもかかわらず、些細な事からA案のよい所を見つけると、同時にB案をけなす意見も考えているのだ。「A案はこういうところがよい、B案にはそれがない。だからB案はよくない」というふうに。
それを聞いたややB案寄りだった人も反論してA案のよくないところを探そうとする「でもA案は**じゃない?」。 それを聞いたらますますA案が正しいことを証明するためB案のへの攻撃は強まる「B案だって**じゃないか。もし**だった場合どうする?」
こうやって「A案こそが正義・B案は悪」とする者と「B案こそが真実・A案は間違ってる」という極端な考えに両者が分かれていくパターン。ついには「B案を信じるアイツは悪」「A案を信じるアイツは愚か」となり、議論はただのケンカとなる。
本当の目的は、A案かB案かを決めることではなく、誰もが納得する最良の案を見つけることであるにもかかわらず。
このパターンがあまりに多いように感じる。
こうして両者は精神的に疲弊し、何らよいアイデアが浮かんでいない事実に愕然とする。 もしかしたらより優れたC案やD案もあったにも関わらず、A案派/B案派どちらかが強行作業を開始するか、中途半端で波風立てない作業だけが行われたりする。
これまで自分が行った議論のうち、果たしてどれだけがより生産的で良い結果になったか。果たしてどれだけがただのケンカになったか。
僕は確信する。議論は成功する確率より、失敗する確率のほうがはるかに高い。
正論は攻撃である
最も信頼の置ける人間である配偶者とですら、うまく議論できずにケンカになってしまうことは多い。
もちろん大人なので、明らかに人格を否定したり侮辱したりはしない。
ささいな議論が「いかに自分の意見が正しいか」を証明するためのバトルにシフトしていくのだ。それは本来全く必要のないであるにもかかわらず。
「自分は正しい」と言うことは「だからお前は間違っている」と言っていることになるのだ。
「ほら、私は正しいだろう?」という正論を吐けば、他者を攻撃していることになる。
なぜこうなるのか
「自分が傷つきたくないから」の一点に尽きると思う。
自分を守るために相手を攻撃する。その攻撃は相手の守りを強固にし、新たな武器を探させる。議論という名の戦争は、議論をした時点で始まっている。
「自分が間違ってるかもしれない」と考えられて、なおかつ「自分は間違っていた」と言える人は、そうでない人に比べて圧倒的に少ない。
自分で自分を否定することはとても苦しく、間違いを認める勇気が必要だからだ。
どうすればいいのか
こうして僕は、最近はできるだけ議論をしないようにしている。基本的には議論は避けるべきだと思う。「人を動かす」にもあるように「誤りを指摘しない」ようにしている。できてなかったらごめんなさい。
とはいえ、議論から産まれるメリットは当然あるだろう。明らかな間違い(バグ)は指摘しないと全員が不幸になることもある。
会議だ相談だで、議論は日常に存在する。
議論をしたくないからといって、独裁政治を許すことはできない。
どうしても議論しなければならなかったとき、次の教訓を思い出そう。
- 議論はすべきでない。
- 基本的に議論は失敗しやすい。
- できるだけ間違いを指摘しない。
- 議論に勝とうと思わない。どの意見に決まろうと受け入れること。
- 相手を信頼する。
- より良い案があると信じること。より良い案を探そうとすること。
- 極端な考えに正解はないと知ろう。
また、一つ考えたアイデアとして、最初に極端な説をいくつかうちだし、そこから収束する方向に議論を進めていけば、中間のアイデアに収束しやすいのではないかと思う。
自分が自分の立場でなしうる最も正しい行いを、仏教用語では「中道」と言う。*1
wikipediaにはこうある。
中道とは(略)相互に対立し矛盾する2つの極端な概念・姿勢に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93
議論とは、
互いの信頼関係が十分構築されていて、
議論が失敗しやすいという共通認識をもち、
お互いにどちらかが勝とうとせず、
共通の前提知識があり、
両者が協力関係が望める成熟した人格を持っており、
かつ十分な時間があってはじめて成功する、
超高度なコミュニケーションなのだ。
おわりに
このブログも「いかに自説が正しいか」に極端によせて書かれているため、自己矛盾する。
あたりさわりないメッセージよりも、極端な説のほうが一石を投じれる可能性が高まる。
社会は、声が大きい者が有利になるようにできている。
よくないものに「よくない」と言うことで世界が良くなることもある。
これで議論は深まるだろうか。
こんなのはクソだとリプされるだろうか。
*1:仏教に詳しいわけではなく、光圀伝から引用